【続・コーチングについて:その4】

 

9)『監督・コーチ』という幻影


 子供たちが野球チームに入った時から、もしくはその指導者が就任した時から、子供たちにとっては監督やコーチと呼ぶ人が突然現れます。そして、その時からその『監督・コーチ=指導者』なる人の言うことを聞かなければならないのです。指導を受けるのですから当たり前のことですが、見ず知らずの人(知っている場合もあります)だった『指導者』ことを子供たちはどう思っているのでしょうか。


 野球の指導者と学校の先生は、比較的似ています。どちらも教えるという役回りです。筆者がコーチをしていた頃、子供たちが質問をする際によく間違えて「先生!」と筆者に呼びかけました(内心うれしかったです。気を許してくれたと思うからです)。大抵の子供たちは、学校の先生と同じように『指導者は偉い人』『野球を教える人』『野球をよく知っている人』『この人(指導者)の言うことは正しい』『言うことを聞かないといけない相手』といった風に見ているのではないでしょうか。もちろん親御さんの教育によってすり込まれていることも往々にしてありますが、余程自立心の高い子でない限り、小学生なら前述のように指導者を見ていると思います(自立心の芽生えた中学生になるとは簡単にそうは思いません)。しかし、こうした指導者の見方もしくは格付けは、ある意味で『幻影』ではないかと筆者は考えています。『指導者は野球をよく知っていて、野球のいろんなことを教えてくれる』といったことは、ホントにそうであれば間違いではありません。しかし、『指導者は偉い』『言うことは正しい』といったことは、もしかしたら『思いこみ』=『幻影』かもしれません。


 チームのお茶当番(世話係)をしてくださる親御さんは、指導者が休憩するとすぐにお茶を入れてくれます。子供が世話なっているという礼儀以上に、偉いお方をおもてなしするように丁寧にしてくださいます。少年野球の指導者なんて、大抵やりたくてやっている人ばかりです。ただの 『野球好きの近所の親父』がほとんどではないでしょうか。まるで指導者をお殿様や天下人のようにうやまうのは、少々『勘違い』だと思います。つまり、親御さんの中には『指導者』という名の『幻影』を思い描いている方もおられると思います。(学校の先生が同じように『幻影』というわけではありません)

 指導者の中にも「我は偉い指導者なり、我に従うは当然」という幻想に思い浸っている方が時々います。『指導者』という肩書きを掲げ、子供たちに命令を下す。「我が情熱こそが真実であり、異論は邪教なり」と自らを正当化し、異論を唱える者は排除する。もし指導者自身がこのように思っているならば、恥ずかしいほどの大間違いです。それは、指導者自身が肩書きという『幻想』に酔っているのではないでしょうか。


 子供たちの多くは「監督・コーチの言うことだから…」と思い、指導の言葉を聞き、言われた通りに動こうとします。これは『幻影』によって、そうしなければならないと思っている場合があり得ます。つまり、監督・コーチは『指導者』という幻影に支えられているから、子供たちが言うことを聞いているのかもしれません。もしそうならば果たして、それでいいのでしょうか。

 例えば、指導者が間違った知識・技術を教えることは、大前提としてあってはならないことです(技術の進歩や指導者自身の学習によって変わることはあり得ます)。しかし、指導者という立場もしくはその『幻影』によって、間違った内容も子供たちには『正論』として受け入れられてしまいます。

 ならば、子供たちが幻影にとらわれずに『真に慕うべき人間としての指導者』とはどんな人物なのでしょう。素晴らしい実績もまた尊敬に値する要素かもしれませんが、結果や功績だけでは目の前の人物を推し量ることは出来ません。筆者が考えるに、子供たちにとって『真の指導者』とは子供たちとの信頼関係によって成り立つのではないかと思うのです。子供たちが「この指導者という名をもつ人物は、信頼して付いていくに値する」と心のどこかで判断した時、真の指導者として認められるのではないでしょうか。しかし、その信頼関係そのものが『幻影』であることさえあり得ます。


 卒団する時、子供たちの多くは監督に感謝をし、別れを惜しんで涙を流す子もいます。たとえ、間違った指導をしたり、無理をさせて故障をさせた監督でさえ、尊敬の念を持って多くの子供たちは別れるのです。しかし、そこには『幻影としての指導者』が存在している場合もあります。精神的にも純粋な子供たちは、ただ監督・コーチを信じ、その教えに従い、時にはその期待に応えようと努力さえするのです。筆者は指導者の方に、その責任の重さ、もしくは極論するならば『罪』を感じて欲しいのです。小学生の多くは純粋に指導者を信用するので比較的指導しやすく、また小学生の段階で勝利などの結果を強く求められることもなく、将来どんな選手になるか責任を追う必要もない…だから、安易に指導者=監督・コーチになれるともいえます。子供の頃のことなど大きくなればほとんどが忘れてしまうでしょう。しかし、子供たちの心と体に与える影響は少なくはないと、筆者は考えています。


 その指導者の個性によっては『やさしい人』『おもしろい人』『怖い人』『怒る人』などと子供たちは色々な『指導者像』を思い描いているはすです。低学年の中には、その態度から察するに、指導者を『ただの野球のオッちゃん』『一緒に野球する遊び仲間』くらいにしか思っていない子もいます。しかし、ある意味これが最も正しい『少年野球の指導者』の格付けではないかと、筆者は思います。「このオッちゃんの言うとおりに野球やっていたら、ちょっとは上手くなってきたし、おもしろくなってきた。また教えてもらおう」なんて思ってくれたら、筆者自身はその時に「ちょっとは子供たちの指導者になれたのかなぁ」と思えるのですが(実際はそんなことを子供たちは口にしません)…同時に、何であれ指導するならその責任の重さを肝に銘じていなければならないと改めて感じます。


 なんだか観念的な話になりましたが、あくまでも極私的な筆者の思いです。あなた自身は子供たちにとってどんな指導者ですか?どんな指導者になりたいとお考えですか?…今一度、指導者の方ご自身で、あるべき『指導者』像を思い描いていただきたいと思います。

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